毎回好評の企画、スポスルインタビュー。
今回は日本初のプロラクロスプレーヤーとして2022年まで活躍していた、山田幸代さんにインタビューをさせていただきました。
全3回にわたってお送りする第1回目の今回は、日本初のプロラクロスプレーヤーとして活躍してきた山田さんが、どのようにしてラクロスと出会い、どこに魅力を感じたのか。日本初のプロ宣言をした際の想いなどもお話しいただきました。
山田さんの行動力とパワーが感じられるインタビューとなっていますので、是非ご覧ください!
【山田幸代(ヤマダ サチヨ)/プロラクロス選手】
1982年年8月生まれ。滋賀県近江八幡市出身。
世界ラクロス協会ルール委員会women’s サブコミッティーチェアマン、世界ラクロス協会選手会メンバーなどを歴任。
中高とバスケットボールをプレー。高校時代は全国大会出場も経験し、チームのキャプテンも務めた。
大学時にラクロスと出会い、その後2007年にプロ宣言し、2008年ラクロス強豪国であるオーストラリアのチームへ移籍。2017年にはオーストラリア代表にも選出された。
現在はラクロス台湾代表監督や、2022年ラクロスSIXES日本代表のコーチなどを務めながら、子どもたちの育成にも携わり競技普及にも尽力している。
インタビュアー・文:スポスル編集局
なにもできなかったことが楽しかった
中学、高校時代はバスケットボール部に所属し、全国大会に出場しチームキャプテンを任されるほどの実力者が、日本初のプロ選手になるほどまでのめり込んだラクロスと、どのようにして出会ったのか。また、その魅力とは。
ーーーまずはラクロスをはじめようと思ったきっかけを聞かせてください。
山田幸代
高校の時まで中高バスケットボールをしていて、1年で365日あったら、360日はバスケットボールの練習をしていたので、お腹いっぱいになっちゃったというか。
大学入ったら、何もせんとこうと思っていたんですけど、やっぱり情熱かけることに癖づけられてきた6年間だったので、その情熱をかけるものが何もないっていう時に、しょうもないなと思ってしまって。
そのタイミングで、たまたまゼミの友達がラクロスしていて、私も何も知らないスポーツだったのでちょっとやってみるかーという感じで始めたのがきっかけです。
―――最初は気軽にはじめてみたということですね。その後、山田さんはラクロスというスポーツを長く続けていったわけですが、ラクロスのどの辺りに魅力を感じたのでしょうか。
山田幸代
なにもできなかったこと自体が楽しかったです。
今までは素手で大きなボールを扱って、投げたいところにボールが投げられて、自分で進みたい時に進めて。
でも、スティックでボールを「取って・投げて・拾って」という1つのスティックだけで完結してしまうスポーツに出会ったのが初めてでした。
ラクロスの魅力はギャップにある
―――ラクロスというスポーツ自体の魅力をお聞かせください。
山田幸代
簡単に言うと、「フィールド最速の格闘球技」って言われるぐらいスピーディで激しさがあるスポーツですね。
実はラクロス可愛いよねなどファッショナブルなイメージを持っていただくことがすごく多いです。
でも、1回見てみたらすごい激しくて、女性もマウスガードをずっとしてるくらいです。私のシュートでも100km/h以上出ますし、男性のシュートだと180km/h普通に出るんです。
―――野球のピッチャーが投げるボールより速い!
山田幸代
そうですね!それを、硬質のゴム素材でできたスーパーボール大きい版みたいな形のボールを使用してプレーします。
よく跳ねますし、それをゴールキーパーが取ったりというように、見ていてもダイナミックなスポーツではあるので、 そこのギャップはラクロスとして面白い部分かなと思います。
「子どもたちの選択肢を1つ増やす」という機会を創造したい
大きな夢があると語る山田さん。その夢に近づくためには決断を迷うことはなかったそう。
一般企業で仕事をしながらラクロスをプレーしていた際や、プロ宣言を決断した際などのターニングポイントで感じていたこととは。
―――山田さんご自身のご経歴としては、大学卒業後に一般企業に就職し営業職でトップセールスを獲得するほどの成績を残しながらラクロスも両立していたと聞いています。
山田幸代
ラクロスを始めた時から私の中で大きな夢があって。子どもたちにラクロス選手になりたいって言ってもらえるようなスポーツにすることで、子どもたちの選択肢が1つ増えるっていうのを、私の中ではすごくやりたかったこととしてその頃から考えていました。
子どもたちの選択肢を増やすという、そういう機会を創造していくことっていうのが自分の中で大きな夢でしたね。
そういった目標が頭の中で1番上にあったので、ラクロスの普及活動をしながら、企業の仕事もしていくというところに苦はなかったです。
―――そんな中、山田さんは2007年にプロ宣言をしました。その時はどのようなことを考えてプロ宣言をしたのでしょうか。
山田幸代
たまたまタイミングが合って、とある企業さんに声がけしてもらったんです。
子どもたちの夢の1つになるのであれば、そのスポーツだけで生活をしている人が1人でもいないといけないんじゃないかという問いをいただいて。じゃあ、1回チャレンジしてみたらってサポートしていただいたのがきっかけでした。
全然迷いはなかったですね。なんか食べていけるか、食べていけないかっていうよりは、子どもたちに選択肢を広げたいという自分の夢に近づくのであれば、っていうところで踏み切りました。
選択肢がない職業があるのであれば、作っていこうと。
―――プロになろうと決断されたときに、ご自身のなかでもこれはプロでやっていけるぞという感覚はございましたか
山田幸代
全然なかったんですよねそれが(笑)ナンバー1になりたいとは思っていなかったので。
自分の実力的にも、チームで1番巧いというわけではなかったですし、実力的には下から数えた方が早いレベルでした。ただ、チームの中には必要で、なんでも頑張るという感じの選手でしたね。
現役でいることで知れる情報があった
―――その後オーストラリアに渡って、オーストラリア代表選手になるなど長く現役生活を続けてきた山田さん。2022年で現役引退をするということですが、現役へのこだわりなどはあったのでしょうか。
山田幸代
現役選手でいること自体にこだわっていたというよりも、現役でいることで知れる情報がたくさんあったからこそ現役をやっていたというだけでしたかね。
人生において、常に疑問を持ちながら生きていこうと思っているんですけど、そこがコーチングであろうと、携わり方が変わろうと、そういった情報がたくさん知ることができれば現役でなくてもよかったんです。
引退をしたくないとか、現役にこだわってるとかっていう部分で続けていたわけではないんですよね。
コネクトの強さが違う
―――日本と海外との違いなどはどのように感じていますでしょうか。
山田幸代
人との関わり方、コミュニケーションの仕方っていうのが違いますかね。
オーストラリアはラクロスを通したファミリーという感じがします。日本だといい意味でライバルということに対して重きを置くのが強いなと感じます。
オーストラリア人って、代表とかにチャレンジして自分の全力が出せて選ばれなかったら仕方ないと思えるんですけど、やっぱりライバルって思うと落選したときに「あの人より私の方がよかったのに、なんで!」となることが多いなと思いますね。でも、それはいい意味で残しておくべきだと思っています。
違いということで大きくいうと、ファミリー感であったり、コミュニケーションの強さ、コネクトの強さが全然違うかなと感じます。
山田幸代さんインタビューVol.1はここまでです!
次回は2008年に移籍したオーストラリアでのご経験を語っていただいております。お楽しみに!