ネットを挟んで打ち合うバレーボールは、テニスにも似たある競技をヒントに生まれたスポーツ。
しかしその誕生には実はもう一つあるスポーツが深く関わっています。
そしてバレーボールは、アジアのある国で大きく変化しました。
さて、それらはいったい何でしょうか?
ここでは、バレーボールの歴史についてご紹介します。
【バレーボール】歴史 バレーボールの誕生
バレーボールが誕生したのは1895年。
場所はアメリカ、マサチューセッツ州ホリーヨーク市のYMCAでした。
この年代と土地には深い意味があります。
それはこの4年前、1891年にこの州でバスケットボールが誕生したということです。
バスケットボールはアメフトなどをしている若者が冬の間に体育館でプレーできるようにと考案されたスポーツ。アメフトのようなラフプレーがない安全なスポーツとなるよう工夫されていました。
それでも同じコート内でボールを奪い合うバスケットボールは激しすぎて若い男女にしか向かないという声も。
そこでもう少し大人でも楽しめる、穏やかなスポーツが求められていました。
考案者
そのような中で新しいスポーツを考案したのは、YMCA体育主事だったウイリアム・G・モルガンという人物。
彼はネットを挟んで行うスポーツなら激しくボールを奪い合うことはないと考え、ミントンという競技をヒントにバレーボールのルールを作り上げました。
ミントンはインド発祥のプーナという遊びが源流で、ラケットを使ってネット越しに毛糸のボールを打ち合うというもの。ボールが地面に落ちたら失点となります。
モルガン氏はこのミントンをヒントに、道具を使わず手で打ち合うスポーツを考案したのです。
そして彼はこの競技にミントネットという名をつけました。
ミントネットからバレーボールへ
1896年、ミントネットの初めてのデモンストレーションゲームを見たある教授が、「ボールを落とさずに打ち合うのはテニスのボレーに似ているからVOLLEY BALLという名の方がふさわしい」と発言。
これが認められてバレーボールという名が定着しました。
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【バレーボール】歴史 大きな変化
誕生当時のバレーボールはネットを挟んでボールを床に落とさないように打ち合うというだけのルール。
競技人数も決まっていない上、相手に打ち返すまでに何回打っても良いことになっていました。
しかしその後、ある試合をきっかけにバレーボールは大きく変化することになります。
フィリピンでの大改革
1910年、フィリピンのマニラ市にあるYMCAでバレーボールが初めて紹介されると、フィリピン全土でバレーボールが大人気となりました。
当時のバレーボールは、チームの全員がそれぞれ1回から3回ボールをトスした後、キャプテンの合図で相手コートに打ち返すというルール。
その間にミスをしないことが目的のスポーツでした。
しかも人数制限もなかったため、1912年のある試合では、一方のコートで52回もトスしてから打ち返すということに。
たまたまこれを見ていたフィリピン体育協会のメンバーが「あまりに遅い。ボールを打てるのは3回までにしよう」と発案しました。
フィリピンではこれが公式に採用されたのですが、とはいえトス3回ではミスはあまり起こらないもの。
そこでフィリピンの選手は相手のコートに強く打ち返すスパイクの技術を編み出したのです。
【バレーボール】歴史 日本への伝来
日本にバレーボールが伝わったのは、1908(明治41)年。
国際YMCAトレーニングスクールで学んだ大森兵蔵という人物がバスケットボールと共に紹介し、日本人に指導しました。
しかしどちらのスポーツも普及には至らず、5年後の1913(大正2)年に東京YMCAの体育主事に就任したフランクリン・ブラウンという人物が大森氏の跡を継いで普及に尽力しました。
極東選手権競技大会
ブラウン氏就任と同じ1913(大正2)年、日本・フィリピン・中国の3カ国で始まったのが、極東選手権競技大会。
これはオリンピックに向けて極東諸国のスポーツ技術向上を目指した大会で、開催種目にはバレーボールも入っていました。
ところが日本はあまりにも普及が進んでいなかったため、第1回と第2回は出場を見送り。
日本で初開催された第3回大会で初めて代表チームが出場しました。
そのメンバーは19名中、バスケット兼任選手が4名、陸上競技兼任選手が3名で、なんと試合前日にキャプテンがルールを説明するという情けない状態。
しかしこの大会を機に日本でもバレーボールへの熱意が盛り上がっていったと言われています。
【バレーボール】歴史 攻撃的バレーボールの逆輸入
フィリピンで誕生した「3回以内に打ち返す」というルールは極東選手権競技大会でも採用され、レシーブ・トス・アタックという攻撃的なバレーボールがアジアでは一般的になりました。
しかしこの当時、本場アメリカのバレーボールはまだ回数制限なしに相手に返すというレクリエーション的スタイル。
そこにフィリピン流バレーボールを伝えたのは、日本人を指導していたフランクリン・ブラウン氏でした。
それは極東での変化から5年後のこと。
このルールはアメリカでも採用され、誰でもできるスポーツとして生まれたバレーボールは、激しく攻撃的な競技に変貌したのです。
まとめ
アジアの影響でプレースタイルが根本的に変わったバレーボール。
その後、バレーボールは参加人数を定めるなど多くのルール改正をしながら世界的な人気スポーツに成長しました。
一方で、手軽なレジャースポーツだったはずが激しい競技になったのは皮肉な話。
もっと手軽にできるようにとソフトバレーボールやキンボールなどのニュースポーツが登場しているのは面白い現象だと言えるのではないでしょうか。
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