近年は国際的な活躍が減っていたバレーボール男子日本代表。
しかしかつてはアジアの強豪として世界に恐れられてきました。
ではその男子日本代表の歴代監督はどのような人たちだったのでしょうか。
今回は、バレーボール男子日本代表の歴代監督一覧を調査。
全盛時代の主な監督の成績もご紹介します。
【男子バレー】歴代監督一覧
まずはバレーボール男子日本代表の歴代監督から。
その前に日本代表チームの変遷を簡単にご紹介します。
バレーボール男子日本代表の歴史
日本のバレーボール協会が設立されたのは1927年。
当時は「大日本排球協會」という名称でした。
しかしそれ以前にもバレーボール界には極東選手権という国際試合が存在。
日本も1923年の第6回大会からバレーボール専門の全日本チームを送っています(それ以前は他競技の選手が兼任で出場)。
その後、改称した日本バレーボール協会は1951年に国際バレーボール連盟に加盟。1960年代から1970年代にかけて日本は世界の強豪国として活躍しました。
しかし1980年代からは低迷が続くことに。
ちなみに日本代表の名称は2018年度までは全日本男子バレーボールチームでしたが、他のスポーツでも「全日本」という呼び方が減っていることを受け、2019年1月からはバレーボール男子日本代表に変更されています。
歴代監督
バレーボール男子日本代表の歴代監督がこちら。
退任後に再び就任した監督もいます。
名前 | 在任期間 |
多田徳雄 | 1923年・1925年・1927年・1930年 |
前田豊 | 1954年 |
長崎重芳 | 1955年・1958年・1960年・1962年 |
和田助則 | 1955年 |
坂上光男 | 1957年・1958年・1961年〜1964年・1976年 |
松平康隆 | 1965年〜1972年 |
小山勉 | 1973年〜1976年・1986年〜1988年 |
中村祐造 | 1977年〜1980年 |
中野尚弘 | 1980年〜1984年 |
斎藤勝 | 1984年〜1986年 |
南将之 | 1989年〜1990年 |
大古誠司 | 1991年〜1995年 |
辻合真一郎 | 1996年 |
寺廻太 | 1997年〜2000年 |
田中幹保 | 2001年〜2004年 |
植田辰哉 | 2005年〜2013年 |
ゲーリー・サトウ | 2013年〜2014年 |
南部正司 | 2014年〜2016年 |
中垣内祐一 | 2017年〜2021年 |
フィリップ・ブラン | 2021年〜 |
表からも明らかなように初代監督の多田徳雄氏から次の前田豊氏までは20年以上の空白があります。
実は極東選手権が1934年に戦争のため中止になると、日本のバレーボールは国際大会とは無縁になっていたのです。
その間に日本ではネット高を国際ルールの230cmから225cmに引き下げるなどバレーボールがガラパゴス化。
戦後は極東で主流の9人制から国際規格の6人制に合わせるなど、苦心することになります。
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【男子バレー】歴代監督の成績
過去に20人が勤めてきたバレーボールの男子日本代表監督。
全盛期の国際試合での成績はどのようなものだったのでしょうか。
多田徳雄
多田徳雄氏が初代監督を務めた当時の日本代表は今とはかなり違う特殊なチームでした。
多田氏は日本にバレーボールを広めた人物。広島市内の小学校教員時代に日本初のバレーボールの試合を開催しています。
そして神戸高等商業学校(神戸高商)に招かれるとバレーボール部を結成し監督に就任。1922年に始まった全日本排球選手権大会では神戸高商は他チームに1セットも与えずに9連覇するほどの強さを誇りました。
その結果、国際大会の極東選手権にも神戸高商がそのまま全日本チームとして参加したのです。
この極東選手権は、フィリピン、中華民国、日本の3カ国で行った大会。
日本は毎回最下位の3位という成績でしたが、この大会でスパイクや指を使ったパスなどを吸収したことが、日本バレーボールの発展につながりました。
前田豊
前田豊氏は近代バレーボールを確立した人物の一人です。
1954年に全日本男子監督に就任し、翌年40歳で日本バレーボール協会の理事長になると、バレーボールの競技人口拡大に尽力。また世界のバレーを視察し、9人制から6人制バレーに移行しなければならないと強く主張しました。
その前田氏は男女両方の全日本監督を務めた唯一の人物。男子では主な国際大会への出場はありませんでしたが、初出場となった第3回女子世界選手権では銀メダルを獲得しています。
長崎重芳
長崎重芳氏は戦前最高の選手と言われていた人物。
戦後は前田氏とともに指導に努め、「日本バレーの父」とも呼ばれました。
1955年には極東式(9人制)男子監督として、第1回アジアバレーボール選手権で初の国際大会金メダルを獲得。
1958年の第3回東京アジア競技大会では6人制で初優勝し、1962年の第4回ジャカルタアジア競技大会では6人制・9人制で優勝しています。
和田助則
和田助則氏は1955年の第1回アジアバレーボール選手権の6人制の監督です。
日本は前述のように9人制では優勝しましたが、6人制では惨敗。これを機に6人制バレーボールの強化が本格的に行なわれるようになりました。
坂上光男
坂上光男氏は前田豊氏、長崎重芳氏と並んで日本バレーボール史を代表する指導者です。
監督としては全日本男子バレーがオリンピックに初出場した1964年東京オリンピックで見事に銅メダルを獲得。
日本の躍進に貢献しています。
松平康隆
松平康隆氏は東京オリンピックでは全日本のコーチだった人物。
その後監督に就任すると、1968年のメキシコオリンピックでは銀メダルを獲得しました。
そして1972年のミュンヘンオリンピックでは最強のチームを作るため選手の大型化を推進。平均身長191cmと東京オリンピックに比べて8cmのアップを実現しました。
さらにそれでも海外選手と比較して小柄であることから「時間差攻撃」を発案。その結果、男子バレーボールは悲願の金メダルを獲得しています。
小山勉
小山勉氏は東京オリンピックでは選手として銅メダル獲得に貢献した人物。
監督としては1974年の世界選手権で銅メダル、1975年のアジア選手権で優勝。しかし1976年のモントリオールオリンピックでは準決勝で敗退しています。
中村祐造
中村祐造氏はミュンヘンオリンピックのときの日本代表主将。
監督としては1977年のバレーボールワールドカップで準優勝を果たしています。
中野尚弘
中野尚弘氏は東京オリンピックでは選手、メキシコオリンピックでは選手兼任コーチ、ミュンヘンオリンピックではコーチを務めた人物。
1983年のアジア選手権では優勝しましたが、その他は1982年の世界選手権の4位が最高。
以後、日本の男子バレーボールは長い低迷期に入ることになります。
まとめ
アジア選手権以外では長くメダルから遠ざかっているバレーボール男子日本代表。
しかし2023年6月・7月に開催されたFIVB男子バレーボールネーションズリーグでは銅メダルを獲得し、ついに世界の表舞台に復帰しました。
その日本代表の監督が、2人目の外国人監督であるフィリップ・ブラン氏。
彼は前任の中垣内祐一監督時代のコーチでもあり、その後期には戦術面の指揮も執っていた人物です。
男子日本代表は世界ランキングも5位(2023年9月24日更新時点)にまで上昇していますから、選手たちの活躍、そしてブラン監督の手腕にも注目です。
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