4年に1度開催されるオリンピックは多くの人が待ち望んでいるスポーツの祭典!もっとたくさん開催してくれたらいいのにと思う人も多いはずです。なぜオリンピックは4年に1度なのでしょうか。
今回は、オリンピックの歴史について調査!オリンピックが4年に1度しか開催されない理由や、昔と今のオリンピックの違いなどを解説します。これを読めばオリンピックがもっと楽しくなりますよ!
古代オリンピックの歴史と雑学
オリンピックのうち、現在行われているのは近代オリンピック。その前に古代オリンピックというものが存在しました。
その歴史を探ると、オリンピックが4年に1度の理由も見えてきます。
古代オリンピックは地方大会レベル
古代オリンピックというと、大昔にも世界的な大会があったと思うかもしれません。しかし実はまったく違います。
古代オリンピックとは、古代ギリシアで行われていた「オリンピア祭典競技」のことです。
古代オリンピックが始まったのは紀元前9世紀ごろ。この祭典競技はギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事で、全能の神ゼウスなどの神々を崇めるのが目的の競技会でした。
そしてその規模は、全世界どころかギリシア全土レベルでもありませんでした。
当時のギリシアにもさまざまな地方があり、実はそれぞれの地区で祭典競技は行われていたのです。たくさんある中で4大祭典競技として知られていたのが、オリンピア地方の「オリンピア祭典競技」、コリント地方の「イストミアン・ゲームズ」、ネメア地方の「ネメアン・ゲームズ」、デルフォイ地方の「ピシアン・ゲ ームズ」でした。ちなみにギリシアの有名な哲学者プラトンはイストミアン・ゲームズにレスリングの選手として出場したこともあるレスラーで、プラトンというのは「体が大きい」という意味のレスリングネームだったそうです。
当時のギリシア全体の人口は約3000万人。国の4大祭典競技の一つだったということは、古代オリンピックは高校野球でいえば関東大会くらいの規模だったことになります。
最初の古代オリンピックは1種目
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで行われていた競技は1種目だけだったと考えられています。それは1スタディオン競争。1スタディオンは約191mです。ゼウスの足裏600歩分の距離を意味していて、オリンピアの聖地には、長さ約215m、幅約30mの広場を高い盛り土がスタンドのように囲んだ施設「スタディオン」が作られました。
その意味では今の200m走がオリンピックの原点に最も近い競技だといえるかもしれません。
古代オリンピックにアマチュア精神はなかった
近年でこそプロが参加する競技も増えましたが、近代オリンピックは長い間アマチュアリズムを重要なテーマにしてきました。アマチュアリズムを大切にするため、オリンピックに賞金はありません(国からの報奨金はまた別の話)。
ところが古代オリンピックには、アマチュア精神という発想はまったくありませんでした。アテナイには、「オリンピックの優勝者に500ドラクマという巨額の報奨金を与える」という法律があったほど。オリンピックの出場選手たちはこの報奨金を目当てにしていました。
英語のアスリートの語源はギリシア語のアトレーテースですが、この言葉のもともとの意味は「賞品をかけて競う者」。賞品目当てに競うプロ選手こそがギリシアのアスリートだったのです。
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オリンピックが4年に1度の理由
現在のオリンピックが4年に1度の理由は、古代オリンピックをまねたから。ではなぜ古代オリンピックは4年に1度だったのでしょうか。
実は正確には少し違います。古代オリンピックは太陰暦の49カ月間と50カ月間を交互に繰り返して開催されていたそう。この太陰歴が理由というのが、最も有力な説です。
季節の移り変わりは太陽暦を使った方がピッタリ合い、太陰暦では微妙に季節とずれてしまいます。ところがある周期で季節(=太陽暦)と太陰暦がピッタリ合ってずれがリセットされるときがあり、それが太陽暦の8年、太陰暦の8年3カ月だったのです。そのため現在でいう8年という周期は古代ギリシア人にとって重要な意味をもっていました。暦を司る神官は季節と暦が重なる8年ごとに祭典が開き、徐々にそれが半分の4年周期になったそう。それに合わせたのが、オリンピックの4年周期なのです。
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近代オリンピックの歴史と雑学
近代オリンピックが始まったのは1896年。その2年前の1894年6月23日にパリで開催されたスポーツ競技者連合の会議で決定されました。IOCはこの日を「オリンピックデー」と定めています。
オリンピック復活はフランスが戦争に負けたから
古代オリンピックに倣った近代オリンピックの開催を提案したのは、「近代オリンピックの父」と呼ばれるフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵。
貴族の生まれである彼は将来軍人になることを目指していましたが、普仏戦争でフランスが負けたためその道を断念。沈滞したフランスを救うには教育改革しかないと思い立って、各国を視察に行きました。そこでスポーツが若者に与える好影響を目の当たりにしたクーベルタン男爵は、教育活動の一環としてオリンピックの復活を提案したのです。
つまりフランスが戦争に負けていなかったら、オリンピックはなかったということなのですね。
最初のオリンピックは女人禁制
クーベルタン男爵は「スポーツを通じて心身ともに調和のとれた若者を育成すること」「異なる国や地域の人と交流することで、互いを尊重し、偏見をなくすこと」「スポーツを通じて世界平和を構築すること」をオリンピックの理念として提唱しました。
こうして開催された第1回のアテネの大会には参加したのは欧米先進国の14ヶ国。選手は241人でした。今では考えられないくらい小規模でしたが、それよりも驚くのは、第1回の近代オリンピックは、女子禁制の大会だったこと。これは古代オリンピックに倣ったものではありましたが、それなのに「偏見をなくすこと」を理念にしているのはひどい話ですね。
女性の参加はパリ大会から
1900年の第2回のオリンピックは、クーベルタン男爵の希望もあってパリで行われることになりました。しかしこれに対して、オリンピックはずっとアテネで開催すると思っていたギリシアが猛反発。しかたなく第2回大会はパリ万博の付随大会という形で開催されました。
女性が選手として初めてオリンピックに参加したのも、1900年のパリ大会。ただし、24か国から997人が参加したうち、女性は22人(2.2%)で、女子種目が採用された競技はテニスとゴルフだけでした。その後、1904年のセントルイス大会ではアーチェリー、1908年のロンドン大会ではフィギュアスケート、1912年のストックホルム大会では水泳に女子種目が加わっています。これは男性のみで構成されていたIOCのメンバーが「女性らしい」と判断した競技だったそうです。
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まとめ
太陰暦やフランスの敗戦などの影響があって現在の形になっているオリンピック。時代の流れに合わせてその形は大きく変わっています。偏見は以前より減り、今も改革は進行中。今後もオリンピックが良い形に変化していくといいですね。
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