長い歴史を持つボードゲームとして知られる将棋。
かなり昔から存在していたことは想像できますが、正確にはいつごろ生まれたものなのでしょうか。
そして将棋は日本独自のゲームなのでしょうか。
それとも完成された形で日本に伝わったのでしょうか。
今回は、将棋の歴史をその起源から徹底調査。
興味深いエピソードも交えてご紹介します。
【将棋】歴史① 起源
将棋の起源について、かつてはギリシャ起源説やエジプ卜起源説などさまざまな説が唱えられてきました。
しかし今では紀元前200年~300年に古代インドで遊ばれていたチャトランガが起源であるということで意見がほぼ一致。
このチャトランガからは他にも多くの類似のゲームが生まれたことが分かっています。
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チャトランガ
チャトランガは4人制と2人制があるゲーム。
そのうち2人制のものが将棋などの起源になったとされています。
盤は8×8マスで、駒は各自が5種8個を使用。
当初はサイコロを使っていたもので、その目によって定められた列の駒を1回だけ動かすことができるというゲームでした。
将棋の王将と同じ動きをするラージャ(王)、斜めに2マス動かせるハスティ(象)、将棋の桂馬と同じ動きをするアシュワ(馬)、将棋の飛車と同じ動きをするラタ(車)、将棋の歩と同じ動きをするパダチ(歩)という独自の動きをする駒があり、その駒で敵の駒を取れるという基本ルールが、後の将棋の原型につながったと言われています。
チェス
有名な西洋のチェスもチャトランガから生まれたゲーム。
盤は8×8マスで、駒は各自が6種16個を使用します。
ポーン(歩)が敵陣の最上段に侵入したときに、どの駒にでも成れるのが特徴。何度かのルール改正を繰り返して15世紀頃に完成したと言われています。
モンゴルのシャタルというゲームも、チェスによく似たルールです。
シャンチー
シャンチーもチャトランガから生まれ、中国に伝わるゲーム。
縦9本、横10本の線が引かれた盤を使用しますが、マスの中ではなく、囲碁のように交点上に駒を配置するのが特徴です。
駒は各自が7種16個を使用。
下段中央のエリアから出られない駒や中央の河を渡れない駒があるなど、独自のルールがあります。
朝鮮半島のチャンギもよく似たゲームです。
マークルック
タイのマークルックはチェスに似たゲームの中でもかなり古い形を留めているもの。
盤は8×8マスで駒は各自が6種16個を使います。
ビア(歩)を三段目に配置するのが特徴で、敵陣三段目で成るなど、日本将棋との関連が深いとされています。
【将棋】歴史② 日本での発展
世界中に伝わって各地で独自のゲームを生んだチャトランガ。
では日本にはどのような形で渡来したのでしょうか。
実は物証に乏しく、日本に伝わった経緯は確定していません。
しかし以前から伝来ルートとして有力な説が2つありました。
その1つはインド~中国~朝鮮~日本というルートで、もう1つは、インド~東南アジア~日本というルート。
しかし近年の研究では、タイのマークルックとルールが似ていること、駒の名前に中国の影響があることから、インド〜東南アジア〜中国〜日本というルートが有力視されています。
最古の将棋資料
現在発見されているうち最も古い将棋の資料は、奈良県の興福寺境内から発掘された駒。
16点の駒と合わせて「天喜6年(1058年)7月26日」と書かれた木簡も出土しています。
また1058年~1064年ごろに書かれたとされる風刺文学「新猿楽記」にも将棋が登場。
ある登場人物の趣味が将棋という設定で書かれていて、この頃にはすでに将棋が人気を集めていたことが分かります。
平安将棋
平安時代には将棋は貴族の間で流行しました。
しかし平安時代から室町時代にかけて遊ばれた将棋は、現在の将棋とはかなり違う形でした。
例えば平安大将棋と呼ばれたものは、現代と同じような玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類に、銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人を加えた13種類の駒で行うもの。
さらにその後、ルール改定が進むと、現在の9×9の将棋に比べてずっと大きな盤面の将棋がいくつも登場しました。
・中将棋 = 盤面12×12 駒数92枚
・大将棋 = 盤面15×15 駒数192枚
・大々将棋 = 盤面17×17 駒数192枚
・摩訶大々将棋 = 盤面19×19 駒数192枚
・泰将棋 = 盤面25×25 駒数354枚
日本独自のルール
複雑化した将棋が整理されて現在のような型になったのは15〜16世紀頃。
この頃に日本の将棋を特徴付ける独自のルールが追加されました。
それは相手から取った駒を自分の駒として盤上に打って再使用できるルール。
つまり「持ち駒の使用」です。
この日本独自のルールによって、将棋は世界の類似ゲームの中で最も複雑で奥深いゲームになりました。
御城将棋と家元
江戸時代に入ると幕府に将棋所が設けられ、八代将軍吉宗の頃からは毎年、御城将棋が開かれるように。
将棋は幕府の後ろ盾を得て隆盛を極めます。
やがて将棋にも家元が誕生。
名人は大橋本家・大橋分家・伊藤家の世襲制となり、さまざまな手順やルールが定められました。
将棋界の危機を救った新聞社
明治時代になると将棋の家元三家は徳川幕府という経済的な基盤を失い、将棋界は衰退の危機を迎えます。
この危機を救ったのが新聞社。
新聞社主催の8段同士の対局が話題になったことで、新聞社が対局料を払うという形が一般的になりました。
現代も将棋の8大タイトル戦のほとんどを新聞社が主催しています。
再びの危機を救った一言
昭和に入り、太平洋戦争が終わると、将棋は再び大きな危機を迎えます。
GHQが将棋に悪い印象を持ち、将棋を廃止したいと考えたのです。
昭和22年、GHQは升田幸三名人を呼び出し、面談。
その席でGHQ高官は「チェスと違い、将棋は取った駒を自分の持ち駒として使うが、これは捕虜虐待だ」と言いました。
これに対して升田名人は「チェスは取った駒を使わないが、これは捕虜虐殺である。将棋では官位はもとのまま、能力を尊重し、味方として登用する。これこそ真の民主主義である」と反論。
日本の将棋は升田名人のこの言葉で救われたとされています。
まとめ
古くから存在するゲームにもかかわらずローカルルールがない将棋。
今回ご紹介した将棋の歴史を見れば、その理由も分かります。
それは、御城将棋が行われたから。
幕府が公認した将棋は参勤交代で全国に広まりましたが、幕府公認のゲームだけに地域でルールを追加することはできなかったのです。
複雑なローカルルールがないことは、全国的な発展に必須の要素。
このため現在の全国的な将棋人気は江戸時代の御城将棋が支えているとも言われているのです。
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