初めて日本代表チームが結成された1981年、日本女子サッカーリーグの誕生、そしてワールドカップ優勝と新たな時代を切り開いてきた日本の女子サッカー。
元日本代表選手でなでしこジャパンの監督を務めた高倉麻子さんに、選手時代から監督時代を中心に、これまでの歩みを伺いました。
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元なでしこ監督高倉麻子が語る|日本女子サッカーの現在地と未来
【高倉麻子(たかくらあさこ)/元なでしこジャパン(日本女子代表) 監督】
1968年4月19日生まれ。福島県出身。元日本代表のサッカー選手。2016年から2021年までなでしこジャパン(日本女子代表)の監督を務めた。
日本サッカー界初のトップカテゴリを指揮する女性監督となる。
インタビュアー・文:高須啓睦
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夢はプロ野球選手!?サッカーを始めたきっかけは環境の変化だった
幼少期から運動神経がよく、いつも男の子と遊んでいたという高倉さん。
小学生低学年の時は小学校の野球チームに所属し、その後サッカーへと転向。
女性がサッカーを続けること自体、とても大変な時代だったといいます。
ーーーサッカーを始めたきっかけを教えてください
高倉麻子 私が小学生の頃はまだサッカー自体が全然注目されていなくて、学校では野球が人気でした。
小学生の時はクラスで野球チームを作って、「私もプロ野球選手になる!女子選手第一号になる!」っていう夢を持って草野球で遊んでいました。
そんな時、小学校にスポーツ少年団のサッカーチームができて、一緒に野球をやっていた友達がみんなサッカーチームに行ってしまいました。
私自身別にサッカーをやる気はなかったんですが、みんな入っちゃったし、遊ぶ友達いなくなっちゃったから、私も入部届けを書いて出したんです。
そしたらサッカーチームの先生が「女の子だけどやるの?」と聞いてきて、なので私も、「やりたいです。」って答えたら、笑顔で「いいよ。」と快く受け入れてくれました。
私、今でもその場面とか、景色とか、先生の笑顔まで、すごくよく覚えています。
もし先生が「男の子のクラブだからダメ」って言ったら、結構あっさり「わかりました」って言っていたと思います。
本当は野球がやりたかったから。
でも、その先生が男の子女の子と分けないでチームに入れてくれたから、今の私がいるんですよね。不思議な分岐点です。
家族のサポートがあったから続けられた“サッカー”
もともと球技が得意だったこともあり、みるみると成長。小学5年生の時からは男の子の中に混ざって試合に出ていたといいます。
サッカーに夢中になった高倉さんですが、当時サッカーを続けるためには多くの苦労がありました。
高倉麻子 小学校の時は入れてくれるチームがあったのでよかったのですが、中学校に入ってからはサッカーをやる環境がなくて苦労しました。
サッカー部は男の子しか入れなかったので。バスケットボール部とかソフトボール部に入っても、やっぱり物足りなかったですね。
「サッカーがやりたい」と毎日毎日、母親に言い続けていたら、雑誌で東京のチームを見つけて電話してくれて、そしたら月1回でもいいですよと言ってくれたので、福島から通ってサッカーをすることになりました。
毎回大きな荷物で東京へ行き、練習をして土日は試合をして。時には警察官に、家出少年と間違えられて声をかけられたこともありました。
中学時代は月に1、2度、東京・上野まで片道3時間以上かけて通っていたといいます。練習が思うようにできない中で、サポートしてくれたのは家族の存在でした。
高倉麻子 家族はとても温かくサポートしてくれました。お金もかかったでしょうしね。
母親は毎回、地元の最寄り駅まで送り迎えをしてくれました。
実家は材木屋をやっていたので、父親は、材木で駐車場に立派なサッカーゴール作ってくれて。
野球の網を張って夜練習のために照明までつけてくれました。
バスケ部の練習が終わって、ご飯を食べて、その後に毎日そのゴールを使って練習していました。
一人で一時間とか二時間とか。ひたすらボールで遊んでいました。「ザシッ、ザシッ」って音がするので近所もうるさかったと思います(笑)。
自分で練習を考えて、イメージトレーニングをしながら、ドリブルしてシュートしたり、とにかくずっとボールを蹴っていました。
毎日すごく、本当に楽しかったです。
サッカー少女から日本代表選手へ
家族に支えられ、サッカーを続けてきた高倉さん。
発足まもない日本代表での活動や、当時の状況を教えてくれました。
ーーー日本代表選手に初めて選ばれたのは中学生の時ですよね?
高倉麻子 はい。中学三年生の時ですね。その時は確か、日本代表チームができてまだ2回目か3回目の招集だったと思います。
当時は若い子が多かったです。そもそもサッカーをやっている子が少なかったし、今とは全く違う環境でした。
当時はサッカー選手になりたいと思っていませんでしたし、選手になれるとも思っていませんでした。
ただ「もっと上手くなりたい」それだけだったんです。
だってなかったんですもん。国内リーグも、アジアの大会も、ましてやオリンピックや、ワールドカップも何もなかったし(笑)
日本代表としての活動も、年に1回ぐらい遠征行って中国と親善試合をする程度でした。
遠征費は選手達が自己負担で行き、遠征先ではボロボロのホテルに泊まり、トイレが流れなかったり食中毒を起こしたり、ネズミが出たり、今じゃあり得ないですよね。
そういう女子サッカーの時代だったんです。
当時のことを思い出すと、自分がこんなに長い間、サッカーを生業にしてずっと生きてきたこと自体信じられないですね。
ーーー女子サッカーのリーグが発足してから、ワールドカップ優勝、そして現在と女子サッカーの歩みを間近で見てこられたんですね
高倉麻子 そうですね。Jリーグが始まって、女子サッカーも華やかな時代がありましたが、首の皮一枚でリーグが繋がっているような時代も過ごしました。
私が現役選手を引退する時は、お給料はいただいていませんでした。
チーム運営もギリギリで、街頭に立って募金活動もしました。
でも、私はその時は結婚もしていたので、お金がもらえなくても、納得するまでやり切ろうと、そのあたりは余計なことは考えませんでした。
最後は怪我もあり、ボロボロで辞めましたけれど。
そんな時代のあと、アテネオリンピック出場を決め、なでしこジャパンという名前がついたりしてまた徐々に環境が上向きになっていきました。
当時の選手達や関係者が苦しい時を踏ん張ってきたからこそ、2011年のW杯の優勝や、今の日本の女子サッカーがあることは間違いありません。
お手伝いから始まった指導者への道
選手を引退した後、あるきっかけから指導者への道を歩み始めた高倉さん。
選手時代と同様、女性がサッカー指導者をすること自体、当時は珍しかったといいます。
ーーー高倉さんが選手から指導者になるまではどのような道のりだったのでしょうか
高倉麻子 そもそも当時は女性が指導者をできる環境も、指導者でご飯を食べていける雰囲気もありませんでした。
選手時代は指導者は、絶対にやらないって思っていたんです。
自分がプレーした方が面白いし、指導者になって、自分みたいなめんどくさい選手を扱うなんて絶対嫌だ!って思っていました(笑)
でも選手を辞めて2年ぐらい特に何もしていない時期があって、そしたら当時のJFAの女子委員長さんに「中学年代の指導者が少ないので、高倉さんの経験を活かして、ちょっとお手伝いしてくれませんか」と声をかけていただきました。
私も引退して2年たって、特にやりたいこともなかったので、「私で役に立てるのであれば手伝います。」と。
そこからですね。指導者の道が始まったのは。
正直、自分から積極的に指導者になりたかったわけではなかったのですが、振り返ってみるとありがたいことに、私はいつも運命みたいに、周りの方々に引っ張られてきたように思います。
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東京オリンピックと今後について
ーーーやっぱり東京オリンピックのプレッシャーは大きかったですか?
高倉麻子 そうですね。オリンピックへ向かってのなでしこの監督を引き受けるまではあまり考えすぎないようにしていました。
考えると多分怖すぎて引き受けられないから。(笑)
気持ちを静かにするためにひたすら農業ゲームをやっていましたね。
種を植えて、家を大きくして、牛を育てて牛乳を集めて・・・みたいな。考えない、考えないって。
でも、引き受けた時は「やるしかないな。」という覚悟はありました。
ーーー私たちには想像もつかないような中で皆さん戦っていたんですね。今、東京オリンピックを振り返ってみていかがですか?
高倉麻子 自分の指導にいつも、悩みながら歩んできた道でした。
サッカーはゴールを奪う、ゴールを守る方法に、数学みたいな絶対的な方程式はないので。
誰かにとって正しい答えでも、そのチームにとってはそれが正しいかどうかはわからない。それこそ星の数ほどの方法論やマネジメントがある。
でも、スポーツは結果がすべて、そのことと、良いサッカーをすることや、良い選手を生み出すこと、もうすべてが混沌、カオス状態です。
もう、考えて考えて考えて、結果シンプルなものになったりもするし、更にサッカーは毎年進化していくし、とにかく勉強して、探して、実行する、この繰り返しでした。
なでしこが世界一を獲り、強かった時代は、チームの結束力とか個人の決断する力とか、そういう部分がとても長けていたと思います。
選手達は毎日ミーティング後に遅くまで集まって「ここはこうだよね」とか「今度はこうしよう」とか、よく話をしていました。
その中でお互いを知り、粘り強く勝つ良さが生まれていきました。
でも、東京オリンピック期間は、勿論みんなが一つになろうと努力をして、精一杯やっていたのは間違いないのですが、食事の時もひとりひとり囲いの中でご飯食べて、終わったらマスクをして。
ミーティングはやりますが、そのあと各々静かに部屋に戻るという日々で、なでしこらしい繋がりとか、団結力とか、大会中にレベルアップしていくとか、そういう勢いを東京五輪だからこそプラスにしたかったのに、その良さはあまり発揮できなかったです。
そこは全くの計算外だったし、とても悔しいと思う部分ではあります。
ーーーこれらの経験を今後どうつなげていきたいと思っていますか。
高倉麻子 やっぱりいろいろと経験させてもらってきたので、未来へ向かい、若い世代に経験を伝えたり、私にしかできないことをやっていきたいと思っています。
れまでサッカーに本当にたくさんのものを与えてもらったので、その恩返しはしなければならないと思っています。
未来を創る子供達にはとにかく“サッカーは楽しいよ”っていう事を、そして“サッカーってそんなにうまくは行かないよ”という事、そしてだからこそ、やる意味がある、ということを伝えていきたいです。
高倉麻子さんロングインタビューVol.2はここまでです。
最終回となる次回は、日本の女子サッカーの発展と監督として感じた世界との差、そして今後日本の女子サッカーがさらに強くなるために必要なことを伺いましたので、お楽しみに!
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