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【代打オレ】誰が最初に言った?どんな場面で使うの?

野球で有名なセリフの一つが「代打、オレ」。
監督自らが代打は自分だと宣言して打つという劇的な場面です。
「代打、オレ」で有名なのは、古田敦也氏。
彼は何度も「代打、オレ」を宣言してバッターボックスに立っています。
ではこれをやったのは、古田氏が最初なのでしょうか。
今回は、プロ野球の「代打、オレ」を調査。
「代打、オレ」の歴史や、使う場面、ルールなどを解説します。

【代打、オレ】使える場面

まずは「代打、オレ」を使える場面の解説から。
当然ながら特殊な条件下でなければこのセリフを言うことはできません。

「代打、オレ」に関わるルール

まず「代打、オレ」というセリフは、誰が誰に言うのかということ。
公認野球規則には、選手の交代について以下のように定められています。

5.10プレーヤーの交代
監督は、プレーヤーの交代があった場合には、直ちにその旨を球審に通告し、あわせて打撃順のどこに入れるかを明示しなければならない。
交代通告を受けた球審は、ただちにその旨を自ら発表するか、または発表させる義務がある。

つまり代打を告げるのはチームの監督で、告げられる相手は球審です。
その監督が「代打、オレ」と言って打席に立つのですから、この監督はただの監督ではなく選手も兼ねていることになります。
そのようなことが可能なのかと言うと、実は問題ありません。
野球では「選手兼任監督」という登録が可能で、アマチュアの社会人野球ではよく見られるものなのです。

選手兼任監督のルール

「代打、オレ」の場面とは少し離れますが、選手兼任監督は、ルール上で少しややこしい面もあります
それは公認野球規則に「監督がマウンドに向かう回数を制限する条項」があるから。例えば監督が同じ投手のところに1イニングに2度目に行くと、その投手は自動的に交代となります。
ところが野手にはこのルールは当てはまりません。
そこで例えばキャッチャーが監督を兼任した場合、マウンドに行って一声かけるのは監督が1回行ったのと同じになってしまうのかという問題が発生するのです。
そのため、監督がキャッチャーとして出場する場合は、あらかじめベンチコーチの中から監督代行を選んでおき、監督が捕手として出場中は捕手として取り扱うと決まっています。
ちなみに監督は管理職となるため、選手兼任監督でも労働組合である日本プロ野球選手会を脱会する決まり。ユニフォームの着替えは、他の選手と同じ選手ロッカー室ではなく監督室で行うとなっています。

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【代打、オレ】宣言した歴代の人物

「代打、オレ」で有名なのは古田敦也氏ですが、実は彼以前にも選手兼任監督だった人はいます。
では最初にこの言葉を使ったのは誰なのでしょうか。

選手兼任監督の歴史

実は日本のプロ野球には昔から選手兼任監督が大勢いました
第1号の選手兼任監督が登場したのは、なんとプロ野球創設と同時
1936年に大東京軍の伊藤勝三氏が選手兼任監督を務めました。
以後、選手兼任監督を務めた人物は以下のとおり、かなりの人数になるのです。
(名称が変更されたチームは最新のものに統一)

読売ジャイアンツ
中島治康、藤本英雄、水原茂
阪神タイガース
松木謙治郎、若林忠志、藤村富美男、村山実
中日ドラゴンズ
桝嘉一、本田親喜、杉浦清、野口明、杉下茂、谷繁元信
オリックス・バファローズ
山下実、井野川利春、西村正夫、浜崎真二
福岡ソフトバンクホークス
山本一人、野村克也
北海道日本ハムファイターズ
苅田久徳、井野川利春、岩本義行
千葉ロッテマリーンズ
湯浅禎夫、若林忠志、別当薫
横浜DeNAベイスターズ
中島治康、藤井勇
埼玉西武ライオンズ
宮崎要、中西太、江藤愼一
広島東洋カープ
白石勝巳
東京ヤクルトスワローズ
宇野光雄、古田敦也
大阪近鉄バファローズ
小玉明利
松竹ロビンス
伊藤勝三、竹内愛一、坪内道則
西日本パイレーツ
小島利男
大和軍
森茂雄、苅田久徳
西鉄軍
苅田久徳
名古屋金鯱軍
岡田源三郎、二出川延明、島秀之助
翼軍
苅田久徳

戦前戦後は人員不足のため多くのチームに選手兼任監督がいました。
特筆すべきは苅田久徳氏。なんと4球団を渡り歩いて選手兼任監督を務めています。

最初に「代打、オレ」を言ったのは?

選手兼任監督が非常にたくさんいた上、戦前戦後のプロ野球の記録はあまり残っていません。そのため最初に自分の代打を告げたのが誰かははっきりしていないのが実情です。
しかし最初に自分の代打を告げ、有名になった人物が誰かははっきりしています。

藤村冨美男

最初に「代打、オレ」で有名になり、このセリフの元ネタとされているのは、「初代ミスタータイガース」と呼ばれる阪神タイガースの藤村冨美男氏です。
1936年のプロ野球設立と同時に大阪タイガースにピッチャーとして入団し、戦後は「ダイナマイト打線」の不動の4番として活躍。「もの干し竿」と呼ばれる長いバットを振り、首位打者1回、本塁打王2回、打点王5回を獲得した人物です。
1946年には選手兼任監督に就任。翌年以降は選手に専念しますが、1950年からは再び選手兼任監督となりました。
そして迎えた1956年。監督業を優先してレギュラーを退いた藤村氏は6月24日の試合で自らを代打に出したのです。
ただしこの時のセリフは、「代打、オレ」ではなく、「代打、ワシ」
打席に立った藤村氏は、なんとプロ野球2人目となる代打逆転サヨナラ満塁ホームランを放ち、伝説となりました
ちなみに彼は1946年に選手兼任監督になった当時、クリーンナップを打ちながら投手も兼任していました。負け試合ではサードからリリーフとしてマウンドに上がることも多かったそうですから、「ピッチャー、ワシ」とも言っていたことになります。

古田敦也

正確な記録が残っている中で、藤村冨美男氏の次に自分を代打に送ったとされるのは、南海ホークス時代の選手兼任監督だった野村克也氏です。
ただし彼の一人称も「ワシ」。おそらく野村氏も「代打、ワシ」だったと思われます。
となると、記録にある中で初めて「代打、オレ」を使ったのは古田敦也氏ということに。
彼は選手兼任監督1年目の2006年7月4日の広島カープ戦で、身振りを交えながら初めて「代打、オレ」を行っています。
このときはレフトフライで凡退となりますが、彼はその翌日にも「代打オレ」を実行。ツーベースヒットを打ち、見事に「代打、オレ」を成功させています。

まとめ

監督は若手を育成しベテランのプライドを守るなど、選手たちに気を使う立場。
古田敦也氏は、「自分ならこのピッチャーを打てると思っても、各方面に配慮してなかなか自分を代打には出せなかった」と語っています。
成功すればヒーローになれる一方、失敗すれば叩かれるのは確実な「代打、オレ」。
選手兼任監督がごく稀なこともあって難しいかもしれませんが、ぜひまた見てみたいものです。

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