パラリンピックはオリンピックの直後に同じ会場で開催される大会。障がいのあるトップアスリートが出場できる世界最高峰の国際競技大会で、オリンピック、サッカーワールドカップに続いて世界で3番目に大きな国際大会といわれています。ではこのパラリンピックは、いつ、どこで始まったのでしょうか?
今回は、パラリンピックの歴史について調査。そのルーツから現在までの軌跡を解説します。
【パラリンピック】原点
パラリンピックは最初からパラリンピックとしてスタートしたわけではありません。実は最初はとても小さな大会でした。
ロンドン郊外の病院が原点
1944年、イギリスのロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科が開設しました。これは第2次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の治療とリハビリを目的にした施設。
その初代科長に就任した医師のルードウィッヒ・グットマン卿は脊髄損傷のリハビリに、車いすを使ったポロやバスケットボール、卓球などのスポーツを導入しました。
最初は病院内のアーチェリー大会
そして1948年、グットマン卿はロンドンで開催されたオリンピックにあわせてストーク・マンデビル病院内で英国退役軍人の車いす患者によるアーチェリー大会を開催します。男子14名、女子2名が参加したこの大会が、のちのパラリンピックの原点。
つまりパラリンピックの最初の大会は、病院内のアーチェリー大会だったのです。しかしグットマン卿は、このときすでに「将来的にこの大会が障がいを持った選手たちのためのオリンピックと同等な大会となるように」という展望を語っていたそうです。
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【パラリンピック】国際大会として発展
1960年代になるとストーク・マンデビル大会は急速に発展し、国際的な大会になっていきます。
国際ストーク・マンデビル大会委員会設立
1960年、イギリスのほかにオランダ、ベルギー、イタリア、フランスが加わって5か国による国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)が設立されます。国際ストーク・マンデビル大会は毎年開催されていましたが、ISMGCは会合で、「オリンピック開催年に実施する大会だけは、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施する」と決定しました。
第1回パラリンピックは1960年ローマ大会
同じ年、オリンピックが開催されたローマで国際ストーク・マンデビル大会が開催されると、23か国から400名が参加しました。この当時にはまだパラリンピックという名称はありませんでしたが、実質上このローマ大会が第1回パラリンピックだとされています。
東京大会でパラリンピックという名前が浸透
1964年にはオリンピックに合わせて東京で国際身体障がい者スポーツ大会が開かれます。後に第2回パラリンピックと位置づけられたこの大会の愛称が「パラリンピック」。
当時は「Paraplegia(対まひ者)」の「オリンピック」という意味でした。
【パラリンピック】真の国際身体障がい者スポーツ大会へ
その名前が示す通り、1960年代のパラリンピックは車いす使用者だけの大会でしたが、1970年代に大きな変化の時を迎えます。
視覚障がいと切断の選手も参加
1976年、モントリオールオリンピックの年に行われたのがトロント大会。この大会は国際ストーク・マンデビル競技連盟(ISMGF)と国際身体障害者スポーツ機構(ISOD)の共催で行われました。その結果、それまでの脊髄損傷者に加えて視覚障がいと切断の選手が出場するようになります。
また同じ年にはISODが中心となって、切断者による冬季大会がスウェーデンのエンシェルツヴィークで開催され、後に第1回冬季パラリンピックと位置づけられました。
視覚障がいの選手も参加
1980年には視覚障がい者の国際的なスポーツ団体である国際視覚障害者スポーツ協会(IBSA)が設立され、視覚障がいの選手も参加できるようになります。さらに脳性まひの選手の出場も認められました。
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【パラリンピック】オリンピックとの連携
ここまでの歴史を読んで分かる通り、オリンピックはこの当時パラリンピックとは無関係な大会でした。しかし1980年代以降になると、事情が変わってきます。
パラリンピックが正式名称に
国際オリンピック委員会(IOC)は他の大会に「オリンピック」を連想させる名前をつけることを基本的に認めていません。
しかし1985年にIOCは国際身体障がい者スポーツ大会がパラリンピックと名乗ることに同意。ようやくパラリンピックが大会の正式名称になりました。しかしここで問題になったのが「パラ」の意味。従来のパラリンピックという言葉は対まひ者のオリンピックという意味で、幅広い身体障がい者の国際大会には合わなかったため、ギリシア語の接頭語であるパラ(Para=沿う・並行)+オリンピックで「もうひとつのオリンピック」と解釈することになったのです。
オリンピックの会場を使用
1988年のソウルパラリンピックは画期的な大会となりました。
61か国3,057名の選手が出場したこの大会は、オリンピック組織委員会がオリンピックとパラリンピックを連動させたはじめての大会。そしてオリンピックで使用した会場が初めてパラリンピックにも使用された大会となりました。
オリンピックとの連携を強化
オリンピックとの連携が加速したのは、かなり最近のことです。
1989年に国際パラリンピック委員会(IPC)が創設され、1997年にドイツのボンにIPC事務局が始動すると、ようやく効率的な事務局運営がスタート。
2000年のシドニーパラリンピック大会期間中、IOCのサマランチ会長とIPCのステッドワード会長は、IOCとIPCの協力関係について話し合いました。その結果、「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」と宣言。翌年にはより密接な協力関係も結ばれました。そして2008年の北京大会からパラリンピックの組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合。以後は運営やスポンサーなどの経済面でもIOCがIPCを支援することになり、パラリンピックはオリンピックと一体化した大会になったのです。
まとめ
今では会場やマスコットキャラクターも統一するなど、オリンピックと同じ大会になったパラリンピック。ロンドン郊外の病院からスタートした大会は半世紀あまりで大きく変貌し、拡大してきました。
パラリンピックが掲げる理想は、大会を通じて「人間に限界はなく、壁はあってはならない」と世界に気づきをもたらすこと。今後はパラリンピックが世界をどう変えていくかも楽しみですね。
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