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【柔道】歴史(起源~現在)を調査!日本が誇れるスポーツの1つ!

柔道は日本の武道の一つ。
武道とは、武士道の伝統から生まれた武技の修錬を通じて心技体を鍛える人間形成の道のことで、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道があります。
中でもオリンピック種目として世界で知られているのが柔道。
柔道はどのようにして誕生し、なぜ世界中に愛好家がいるスポーツとなったのでしょうか。
ここでは、日本が誇る柔道の歴史をご紹介します。

【柔道】歴史①:柔道の誕生

【柔道】歴史(起源~現在)を調査!日本が誇れるスポーツの1つ!①
柔道の創始者は、嘉納治五郎(かのうじごろう)という人物。
しかし嘉納治五郎は柔道を無から生み出したわけではありません。
柔道には元になった武術がありました。

最初のルーツは相撲

直接のルーツではありませんが、柔道の源流をたどっていくと相撲にたどり着きます
相撲は古事記や日本書紀にも登場する日本古来の武術。
神話の中の力くらべが相撲の源流であったとされるほど古く、その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として毎年行われたとされています。

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柔術の発展と柔道の誕生

日本では鎌倉時代から江戸時代まで武士が国を治める時代が続き、刀や弓と同時に、相撲をより実践的に改良し、素手で戦うことを想定した柔術が発展しました。
しかし明治時代の文明開花後、柔術は時代遅れと軽視されるように。
一方、少年時代から身体が弱かった嘉納治五郎は、明治10年、17歳のときに柔術の修行を始めました。
最初に天神真楊流(てんじんしんようりゅう)を極めると、続いて起倒流(きとうりゅう)の奥義にも達し、他の流派も研究。
それぞれの良い部分を取り入れ、自らの工夫も加えて、新しい柔術を作り上げていきました
1882年5月、嘉納治五郎は現在の東京・東上野にある永昌寺に道場を開きます。
道場の名前は講道館
最初の門下生は9人で、寺の庭に構えた道場の広さはわずか12畳でした。

スポーツとしての柔道を確立

柔術を極めるほど嘉納にとって辛くなっていったのは、「柔術は古いもの」という世間の認識でした。
今のままでは柔術は廃れてしまうと考えた彼は、柔術が時代に受け入れられるように作り替えようと決意。
もともとは武術であり危険な技も多かった柔術にスポーツの要素を取り入れ、「柔道」を確立したのです。

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女子柔道

嘉納の先進性は女子柔道の発展にも大きく関わっています。
女子柔道の始まりは1893年。
この年に嘉納は、女性の柔軟さの中にこそ真の柔道があるかもしれないと考え、講道館に芦屋スエ子という女性門下生を受け入れたのです。
当時は女性が武道をすることはよく思われていなかった時代。
武道の歴史の中でも革新的な出来事で、これを機に他の武道でも女性の門下生が認められるようになっていきました。

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【柔道】歴史②:国際的スポーツへ

【柔道】歴史(起源~現在)を調査!日本が誇れるスポーツの1つ!②
嘉納治五郎は柔道を作り出しただけでなく、その国際化にも尽力しました。
それだけでなく、日本のスポーツ全体の発展と国際化にも深く関わっているのです。

嘉納治五郎のヨーロッパ訪問

学習院(現在の学習院大学)の教職にも就いていた嘉納は1889年、29歳の頃にヨーロッパの教育事業の視察に派遣されました。
その船上で、からかってきた外国人を嘉納は柔道の技で投げ飛ばします。
しかも相手が怪我をしないよう、頭の下に手を差し入れて落下を助けたのです。
この様子を見た外国人たちは驚愕。
さらに嘉納や弟子たちが世界中で柔道の実演を披露したことで、柔道は海外に少しずつ伝わっていきました
その結果、1893年には講道館にイギリス人が入門。
続いてアメリカやインド、中国、フランス、カナダなどの人々も入門し、世界中に柔道が普及していったのです。

東洋初のオリンピック委員に

その後、嘉納は東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長として、柔道だけでなく水泳、テニス、サッカー、長距離走などの体育教育に熱心に取り組みました。
留学生も積極的に受け入れてスポーツ教育を実施。
その嘉納の噂を聞いたのが、近代オリンピックの創設者であるクーベルタン男爵でした。
彼は嘉納を東洋初のオリンピック委員として招きます。
1909年、嘉納はオリンピック委員となりましたが、この当時、海外から日本に伝わったスポーツで普及していたのは野球とテニスのみ。
このままではオリンピック参加など不可能と考えた彼は「大日本体育協会」を設立し、多くのスポーツの発展に尽力しました。
さらに彼は世界中の人々を説得して、幻に終わった1940年の東京オリンピック招致にも成功
その決定の2年後にIOC総会からの帰途の洋上で亡くなりました。

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柔道が国際スポーツへ

1940年のオリンピックは日中戦争と軍部の反対で残念ながら中止になります。
さらに第2次世界大戦後の日本では柔道の教育は禁止され、大日本武徳会(柔道などの武道を統括する法人)は解散させられました。
その後、柔道の復活が認められ、全日本柔道連盟が発足したのは1949年のこと。
しかし実はそれ以前の1948年にはロンドンでヨーロッパ柔道連盟が設立されています。
続いて1951年には国際柔道連盟が発足。日本は1952年に加盟しました。
つまりこの頃には柔道はすでに国際的なスポーツとなっていたのです。

嘉納治五郎が夢に描いた東京オリンピック

1964年、中止から24年後に嘉納の念願だった東京オリンピックが実現しました。
しかもこのオリンピックで初めて柔道が正式競技に採用
参加は男子のみでしたが、日本は金メダル3個と銀メダル1個を獲得しました。
無差別級では発祥の国の日本が負けるという波乱もありましたが、オランダのアントン・へーシング選手が優勝したことで柔道はより国際的な人気スポーツになったと言われています。

まとめ

女子柔道がオリンピック種目となったのは1992年。
女性の可能性を信じていた嘉納の理念からするとこれは遅すぎたと言えるかもしれません。
一方で国際柔道連盟に加盟している国と地域は現在206。
嘉納が生み出し普及を目指した柔道は、まさに世界中で愛されるスポーツとなっています。
2011年、国際柔道連盟は嘉納治五郎の誕生日である10月28日を「国際柔道デー」と定めました。
この日は私たちも、日本が誇るスポーツである柔道と、スポーツの発展に尽力した一人の人物に想いを馳せてみるのもよいかもしれません。

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おおぱ!

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寝ても覚めてもスポーツ漬け

スポーツ一家に育ち、休日はテニスとランニング。空き時間はほぼスポーツ観戦。夢の中ではなぜかやたらといろいろなスポーツのプロ選手になっている夢中派執筆家です。皆さまにスポーツ愛を届けます!

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